衆議院議員・原口一博のライブ配信に深田萌絵がゲスト出演すると知って、ある種、楽しみにして見てたんだけど、躓いた。
躓いた箇所をクリッピングして以下に。再生時間10s。
act by 池田としえ日野市議
これを思い出したわ。再生時間15s
Full ver.
政治が使う手法と、カルトが使う手法は、似る。人を信じ込ませる、というミッション。手段は、言葉によるレトリック。視覚効果。あとは、薬物。
繰り返す、というのが最も簡単な洗脳方法。テレビコマーシャルでも、よく使われている。テレビコマーシャルで他によく使われるのが恐怖や不安、あるいは、コンプレックスを刺激して、行動=購買につなげるという手法。人の情報処理のうち90%が視覚からの情報と言われる。よって、残りの10%をどう使うかが腕の見せどころ。つまり、音、音楽の使用の工夫。ま、他の感覚期間に訴える、さまざまな手法がある。たとえば、匂いね。
原理的に言えば、政治というのは、一が他=多を束ね、一と一とが、それぞれ束ねた他=多の利益・権利を調整するもの。したがって、政治主導は、原理的には、認められない。それを認めてしまえば、それは、カルト宗教と見分けがつかなくなってしまう。政治家に頭はいらない。手と足、口を動かせ。
政治とカルトは、かなりの部分、オーバーラップしており、だから、気を許した政治家は、いとも簡単に、カルトに堕ちる。自分のためじゃなく、他=多という原点を失うと、自我肥大をもたらし、カルト化する。
とは、書いてみたものの、合ってる?😁
現行の議会制民主主義においては、政治家は、単なる代表者に過ぎず、それを先生と呼ぶのは、どうかと思うよ。
単なる代表者に過ぎず、場面を変えれば、つまり、舞台を変更すれば、大将ではなく、小隊長くらいに過ぎない。大将は、もちろん、国民だ。
ただし、これまで何度も繰り返し書いてるけれど、われわれは、国民であると同時に、国民ではない。ワーグナーの言うフォルクス=民(普通は、民族と訳されると思うけれど、民族だと、違う意味・イメージを帯びてしまう)でもある。つまり、一民が、大将でもあり得るというこの矛盾に、われわれは、引き裂かれている。ゆえに、その矛盾から目を背け勝ちになる。だから、選挙の投票率が50%台にまで落ち込んでいるのだ。
政治に無関心なのではない。われわれのこの大きな背負わされた責任(実は幻想、あるいは、催眠、あるいは、洗脳に過ぎないのだけれど)に押しつぶされているだけだ。
この悲惨を解決する手段は、ふたつ。くじ引きによる代表者選出。そして、テクノクラートの廃止=官僚の解体。官僚のやってる仕事は、将来的には、AIにやってもらう。その程度の仕事しか、してないはずだから。AIでおそらく、99%くらいは置換できるはず。残り1%の情、については、ごく少数の有資格者が担うことになるだろう。
以上が実現すれば、公平・公正な世界に一歩近づく。
いずれそうなるから、覚えておいてね😁
※以下、モノローグ
いやぁ、不評だろうな、この記事😁
たぶん、どこか間違えてる。でも、大枠、正解ひけてると思うんだけどなぁ、、、ブリーダーズカップ・クラシック2024まで、あともうちょいだ。違法アップのライブで見ると、運が落ちるかな。いや、国民的行事で、公益性が高いから、そうでもないか、、、
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